銀山坑道コース
所要時間
2時間30分見どころ
銀山地区のハイライトと呼ぶべき史跡を訪ねるコースです。ガイドからひとこと
見どころ満載のコースですが、特にひとつ挙げるとすれば豊栄神社です。 戦国時代の武将、毛利元就が石見銀山を掌握したのをきっかけに建立され、 その後長らくさびれていたのを明治維新の折に元就の末裔である長州軍が再建し—とドラマチックな逸話をもち、 400年以上も銀山の変遷を見守ってきた存在なのです。銀山公園
各コースの出発点です。石見銀山ガイドの会の事務所もあります。大久保石見守の墓
(おおくぼいわみのかみのはか)大久保石見守長安は、1600年(慶長5年)に徳川家康から任命され石見国の初代奉行として着任、卓越した手腕を発揮した人物です。公費による積極的な鉱山開発や税制の改革などを進め、銀の生産高を飛躍的に増加させました。 長安は1605年(慶長10年)、銀山地区に正覚山大安寺を建立しました。この境内には長安の墓碑(逆修墓)と紀功碑、五輪墓があります。 逆修墓とは生前に自分の法名を付けた墓のことで、建立によって大きな功徳を得られるとされます。紀功碑は、第39代代官菅谷弥五郎が1794年(寛政6年)昔の繁栄の復活を願って碑文を書き、佐和華谷が文字を書いたものです。 寺地内には創建当時の年号が記された墓石など100基以上があります。
豊栄神社
(とよさかじんじゃ)豊栄神社は戦国時代の武将毛利元就を祀った神社で、もとは洞春山長安寺と号す曹洞宗の寺院です。1561年(永禄4年)山吹城内に元就が自分の木像を安置し、翌年に石見銀山を掌握。1571年(元亀2年)に木像を長安寺に移したと伝えられます。 関が原の戦いのあと、毛利家は長州に移封され、寺も荒廃してしまいました。 1866年(慶応2年)に第2次長州戦争が起こり、長州軍が同年7月に大森に進駐した時のこと。長州軍の隊士たちは長安寺に、自分らの藩祖である毛利元就が祀られているのを見つけて感激し、建物を直したり石灯籠や狛犬などを寄進するなど手を尽くしました。隊士の中には、戦国時代から毛利氏に従った石見の武将、祖式氏の子孫もいました。 豊栄神社は1869年(明治2年)、朝廷から豊栄神社の社号を贈られ現在に至っています。
清水谷製錬所跡
(しみずだにせいれんしょあと)清水谷製錬所跡は、石見銀山遺跡で一番新しい近代の遺跡の一つです。1895年(明治28年)、大阪の藤田組(現・同和鉱業)が当時の金で20万円を費やして造った製錬所です。鉱石をトロッコで運び明治の先端技術「収銀湿式法」による精錬を行う予定でしたが、わずか1年半で操業が中止されました。 第二次世界大戦前から終戦後、長らく草に埋もれていましたが、国の史跡に指定された昭和40年代に草が刈られ石垣が現れてきました。9段にしっかりと組み上げられた石垣(最長100m)が、立派な精錬所であったことを伺わせます。
清水寺
(せいすいじ)清水寺は真言宗の寺院です。寺伝によると推古天皇の命により620年、仙ノ山の頂上(石銀地区)に天智院天池寺として建立され、798年(延暦17年)桓武天皇のころ、清水谷に移って勅願寺とされ、1922年(大正11年)に現在地に再建されたという1000年を超える歴史を持ちます。 清水寺は銀山開発と縁の深い寺院です。石見銀山を発見した神屋寿偵は、沖から陸のかなたに輝く霊光を認め、上陸して清水寺に参拝し、帰り道で銀鉱石を拾ったのが始まりと伝えられます。 また大久保石見守配下の山師、安原伝兵衛は清水寺に七日七夜籠り、本尊の十一面観音に祈願して釜屋間歩を発見。その功績により1603年(慶長8年)には徳川家康の謁見を賜り、胴服と扇子、「備中」の名を授けられました。この胴服「辻が花染丁字文道服」は安原備中の孫により清水寺に寄贈されました(現在は京都国立博物館に寄託)。 清水寺にはこの他にも数々の文化財が残されています。
福神山間歩
(ふくじんやままぶ)市道沿いに坑道口が残る福神山間歩は、入口から斜めに掘られ、川の下を横切って仙ノ山方面に延びる特殊な構造の坑道です。 山師個人が経営した「自分山」ですが、一時期、代官所直営の「御直山」となったこともあります。
高橋家
(たかはしけ)高橋家は唯一残っている山組頭の遺宅で、茶室を設け、付随する建物では酒造なども行っていたという銀山地区屈指の建造物です。 山組頭とは谷ごとに任命された山師の代表で、鉱山を取り締まり、支配層と現場労働者とをとりつなぐ重要な役割を果たしていました。たとえば掘り子に年一回配られる大豆4升、麹2升、塩2升を預かって漬け込み「ご勘弁味噌」として配るのも山組頭の役目でした。名字帯刀が許され、関所の通行も武士に準じた扱いとされるなど優遇されました。 酒造などを行った建物の内部には現在、約270トンの貯水槽が設置されており、町並み保存地区の消火栓(50mごとに51箇所)につながっています。
龍源寺間歩
(りゅうげんじまぶ)※有料「間歩」とは銀を採掘するための坑道のことです。石見銀山には大小合わせて約600の間歩が存在するとされますが、現在、通年一般公開されているのはこの龍源寺間歩だけです。 江戸時代初期に開発され、永久・大久保・新切・新横相の間歩とともに『五ヵ山』と称される大坑道でした。江戸時代中期には代官所直営の間歩(御直山)として操業されました。 龍源寺間歩は全長約600mに及びますが、このうち見学できるのは入り口から157mの地点までのところです。坑道内の壁面には当時のノミの跡がそのまま残っており、当時の採掘の様子がよく伝わってきます。また鉱脈に沿って掘り進んだ20余りの横穴や、垂直に100mも掘られた竪坑を見ることもできます。 157mの地点から新たに設けられた観光用の坑道(栃畑谷新坑、全長116m)には『石見銀山絵巻』の電照板が展示してあり、当時の銀山の様子を伺い知ることができます。
佐毘売山神社
(さひめやまじんじゃ)佐毘売山神社は鉱山の守り神である金山彦命を祀る神社です。永享6年(1434年)頃、室町幕府将軍の命で建立され、当時鉱山を領有していた大内氏をはじめ、尼子氏や毛利氏など戦国大名たちから崇敬保護されました。今の建物は文政2年(1819年)に再建されたものです。石見銀山では最大級の山神社で、銀山に暮らす人々の心のよりどころとなっていました。今も地元では「山神宮」「山神さん」と呼ばれ親しまれています。神社周辺には多くの住居跡が棚田のような石垣として残っており、これも見どころの一つです。