温泉津沖泊コース

温泉津沖泊コース

銀山公園

各コースの出発点です。石見銀山ガイドの会の事務所もあります。

坂根口番所跡

(さかねぐちばんしょあと)
坂根口番所跡 江戸時代には、鉱山区域を一般の農村と区別するために銀山を囲う柵列が設けられ、柵に囲われた地域は「柵内」(さくのうち)と呼ばれていました。他地域から「柵内」に入る街道の入り口には「口番所」が置かれ、出入りの監視と税の徴収が行われていました。 坂根口番所は、石見銀山に10ヶ所あった口番所の一つで、柵内から温泉津・沖泊方面への出発点でした。番所があったとされる跡には現在、案内板が立っています。

六地蔵

(ろくじぞう)
六地蔵 かつての街道沿いに、首のないお地蔵さまが7体並んでいます。これが「六地蔵」です(なぜ7体なのかは不明です)首がないのは、明治維新直後の廃仏毀釈運動のあおりで首の部分を打ち壊されたからです。 「六地蔵信仰」は平安時代からあり、仏教の六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)それぞれの衆生を6体の地蔵菩薩が救うという意味が込められています。このため昔から街道の要所や辻などにしばしば祀られます。六地蔵をよく見ると、おのおの杖や数珠などを持ち1体々々が少しずつ異なるのが分ります。

降露坂頂上

(ごうろざか)
降露坂 降露坂は、銀山街道最大の難所とされたところです。「降露坂の戦い」のエピソードの舞台でもあります。1559年(永禄2年)、銀山奪取を目論む毛利元就が尼子軍の守る山吹城を攻めた時のこと。城の守りは堅く、元就が撤退を決めて降露坂にさしかかったところで尼子軍の追撃に合いました。元就が「もはやこれまで」と自刃の覚悟を決めたその時、渡辺通ら7人の武将が元就の影武者となって尼子軍の目をくらませ討ち死に、主君・元就の命を救ったという話です。仙の山や要害山、日本海などを途中に眺めながら坂道をのぼると、標高430mの頂上に到着します。1940年代までは峠の茶店があったと言われ、今は茶店の礎石だけが当時の賑やかな往来をひっそりと伝えます。

西田

(にした)
西田 西田は、石見銀山と温泉津を結ぶ街道のほぼ真ん中あたりに位置しています。戦国時代、軍兵相手に商売をする人々が作った町と言われており、その後、街道沿いの宿場町として、銀山の発展とともに栄えた町です。 400mに渡って旅籠や茶店などが立ち並び、また定期的に市も開かれたといい、往時の賑わいが「上市・中市・下市」という地名として残っています。 西田は、谷あいの棚田の景観が印象的な山里でありながら、伝承や神事には海にまつわるものも多く、街道を海山の文化が往来した証しとして興味深いものです。

ヨズクハデ(秋期)

(よずくはで)
ヨズクハデ 西田には「ヨズクハデ」という四角錐の独特な形をした稲架(ハデ)が伝わっています。「ヨズク」とはフクロウの方言で、稲のかかった様子が、フクロウの羽を休める形に似ていることからこの名がつきました。 その昔、水上神社にまつられている二柱の海神が、強風で倒れる稲ハデに苦心していた里人に、海岸で漁網を干す方法を教えたのが始まり—という伝承が残っています。 「ヨズクハデ」は大田市の有形民俗文化財に指定されており、現在は保存会によって毎年秋に作られています。

瑞泉寺

(ずいせんじ)
瑞泉寺 三明山・瑞泉寺はおよそ1300年頃の開基と伝えられています。もとは真言宗の寺院でしたが、1540年(天文9年)浄土真宗に改宗されました。その当時は瑞泉坊と称し、1604年(慶長9年)に寺号を附与されました。 歴代住職の中では、第12代自謙和尚(1751~1846)の名がよく知られています。自謙和尚は本願寺で最高学階「勧学職」初代を務めたのちに瑞泉寺の住職となった人で、和尚が伝えた吉野葛の精製技術によって、西田の晒葛は有名な特産品となりました。また自謙和尚は他宗派の僧侶とも交流があり、中でも近代になって有名になった博多の禅宗僧侶、仙涯は瑞泉寺に3年間逗留し、多くの水墨画を残しました。特に「十六羅漢図」が有名です。 瑞泉寺の境内には樹齢300年余りの大銀杏の木があります。

水上神社

(みずかみじんじゃ) 水上神社 「水上神社」は、上津綿津美神と上筒男神という二柱の海神を祀る神社です。この神様は温泉津・日祖に上陸して西田の水上山麓に鎮座されたと伝えられます。現在でも日祖の人々は水上神社の氏子で、毎年、神社に海苔を奉納する神事が行われています。また水上神社の鳥居には、桜御影と呼ばれる瀬戸内産の御影石が使われています。この御影石は1724年(享保9年)に瀬戸内海から船で運ばれ、西田やその周辺の人々によって銀山街道を運ばれ、建立されたものです。

金柄杓井戸

(かなびしゃくいど)
金柄杓井戸 西田集落から温泉津へ進むと清水集落に入ります。清水集落の中ほどに、岩と民家の石垣に囲まれて清水が湧き出る泉があり、通称「金柄杓の井戸」と呼ばれています。その昔、泉の水のおいしさに感動した大森の代官が、当時は高価だった金属製の柄杓を奉納したことからこの名がついたと伝えられます。 現在でも近隣の山の伏流水が岩の間から湧き出しており、「島根の名水百選」に選定されています。毎年盆の季節には泉の傍らに祀られた水神にお供え物をし、法要をいとなむ風習が残っています。

松山の道標

(まつやまのどうひょう)
松山の道標 清水集落を過ぎたあたりの街道には、岩盤を削って石段のようにした坂道があらわれます。しばらく行くと石畳の道となり、また近くには土橋もあります。往時の街道の様子が最もよく分る場所と言えます。近くには福光石の石切場跡も残っています。 「松山の道標」も、福光石で出来た道標で、「右 銀山大森五・・ いづも大や・・」と刻まれています。

沖泊

(おきどまり)
沖泊 沖泊は温泉津地区の北側にある港で、石見銀山・柵内から延びる温泉津沖泊道の終点です。湾の入り口に櫛島があるため湾内は波静かで、リアス式海岸のため水深も深く、大型船の入港が容易なことから、銀山の外港として重用されました。 16世紀の戦国時代には、港を守るため櫛島に「櫛山城」が、対岸には「鵜の丸城」が築かれ、いずれも城址が残っています。 櫛山城は尼子方の温泉氏の居城でしたが、温泉氏は1562年(永禄5年)に毛利氏に追われ、滅亡しました。一方の鵜の丸城は、1569年に尼子復興戦が始まり、温泉津の防衛体制を強化する必要に迫られた毛利氏が翌1570年に1ヶ月で完成させた城です。鵜の丸城は東西の郭群から構成されており、東側の郭には銃陣を敷くためのひな壇状の帯郭が認められます。当時の“ハイテク兵器”鉄砲にも対応した水軍城だったことが伺えます。

恵比須神社

(えびすじんじゃ)
恵比須神社 沖泊の港を見守るように立つ恵比寿神社は、恵比寿神・事代主命(大国主命の子)を祀る神社です。社伝によると、神谷寿禎の銀山発見と同じ1526年(大永6年)、筑前国(現在の福岡県)那珂郡芦屋浦の住人の神託によって建立されたと伝えられています。 1592年(文禄元年)、暴風激浪で湾内の多くの船が被害を受けた時、この社に祈るとたちまち海が静まり、人々は喜んで臨時の祭りを行ったといわれています。 ご神体は沖から見つけ出したといわれる自然石です。 右側の拝殿は、彫刻様式から、19世紀中期頃、江戸時代末期の建築とされます。 左側の本殿は、クスノキ主体で作られています。桁・梁より下は後期の立替ですが、実肘木より下の部分は室町期の様式が残り、非常に貴重な古建築であることがわかっています。また県の指定文化財になっています。

沖泊の鼻ぐり岩

(おきどまりのはなぐりいわ)
沖泊の鼻ぐり岩 沖泊の両岸の岩場には、数多くの「鼻ぐり岩」が現存しています。船を係留する綱を通すために丸い穴を開けた岩で、牛の鼻ぐりに似ていることから付いた名です。鼻ぐり岩の周辺には、岬を巡るように細い道が残っており、この道を伝って船から港へと荷物を運んだ様子を思い浮かべることができます。 ちなみに北側の岬に残る「万度」という地名からは、夜間に入港する船のための誘導灯も設置されていたことが分ります。

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