温泉津コース
所要時間
徒歩 3時間10分見どころ
かつて銀の積出港を擁した町、そして温泉のわく町として2つの顔を持つ温泉津の界隈を訪ねるコースです。 沖泊湾で恵比寿神社や鼻ぐり岩を見学した後に、クラシックな町家と神社仏閣が混じりあい不思議な風情をたたえる温泉津の街並みを散策します。ガイドからひとこと
天然の良港「沖泊」の入り江付近には多くの鼻ぐり岩(船を係留するために使われた岩)がたくさん残っています。 一見してそれと分りにくい岩もあります—さていくつ見つけられるでしょうか? 沖泊から海を眺めながら、石見の銀がはるかヨーロッパへと運ばれた16世紀に想いをはせるのも楽しいものです。 その他にも、恵比寿神社、龍御前神社など海にまつわる伝承を残す史跡がさまざまにあります。 銀山とともに栄えた港町ならではの風情をじっくり味わいましょう。ゆう・ゆう館
(ゆう・ゆうかん)温泉津湾のほとり、温泉街の入り口に建つ和風の外観が美しい観光案内所です。1階は休憩室となっており案内資料、おみやげ物などが用意されております。2階は歴史資料室となっており、北前船の模型、豪商や武士の日用品、港で使われていた道具、北前船の寄港地だった面影を偲ぶ資料などが展示されており、古き良き時代の香りを漂わせています。
沖泊
(おきどまり)沖泊は温泉津地区の北側にある港で、石見銀山・柵内から延びる温泉津沖泊道の終点です。湾の入り口に櫛島があるため湾内は波静かで、リアス式海岸のため水深も深く、大型船の入港が容易なことから、銀山の外港として重用されました。 16世紀の戦国時代には、港を守るため櫛島に「櫛山城」が、対岸には「鵜の丸城」が築かれ、いずれも城址が残っています。 櫛山城は尼子方の温泉氏の居城でしたが、温泉氏は1562年(永禄5年)に毛利氏に追われ、滅亡しました。一方の鵜の丸城は、1569年に尼子復興戦が始まり、温泉津の防衛体制を強化する必要に迫られた毛利氏が翌1570年に1ヶ月で完成させた城です。鵜の丸城は東西の郭群から構成されており、東側の郭には銃陣を敷くためのひな壇状の帯郭が認められます。当時の“ハイテク兵器”鉄砲にも対応した水軍城だったことが伺えます。
恵比須神社
(えびすじんじゃ)沖泊の港を見守るように立つ恵比寿神社は、恵比寿神・事代主命(大国主命の子)を祀る神社です。社伝によると、神谷寿禎の銀山発見と同じ1526年(大永6年)、筑前国(現在の福岡県)那珂郡芦屋浦の住人の神託によって建立されたと伝えられています。 1592年(文禄元年)、暴風激浪で湾内の多くの船が被害を受けた時、この社に祈るとたちまち海が静まり、人々は喜んで臨時の祭りを行ったといわれています。 ご神体は沖から見つけ出したといわれる自然石です。 右側の拝殿は、彫刻様式から、19世紀中期頃、江戸時代末期の建築とされます。 左側の本殿は、クスノキ主体で作られています。桁・梁より下は後期の立替ですが、実肘木より下の部分は室町期の様式が残り、非常に貴重な古建築であることがわかっています。また県の指定文化財になっています。
沖泊の鼻ぐり岩
(おきどまりのはなぐりいわ)沖泊の両岸の岩場には、数多くの「鼻ぐり岩」が現存しています。船を係留する綱を通すために丸い穴を開けた岩で、牛の鼻ぐりに似ていることから付いた名です。鼻ぐり岩の周辺には、岬を巡るように細い道が残っており、この道を伝って船から港へと荷物を運んだ様子を思い浮かべることができます。 ちなみに北側の岬に残る「万度」という地名からは、夜間に入港する船のための誘導灯も設置されていたことが分ります。
温泉津やきものの里
(ゆのつやきもののさと)温泉津やきものの里には、やきもの館と二基の登り窯があります。やきもの館は温泉津焼の資料館です。雑器や道具を展示する温泉津焼歴史資料展示コーナーや、焼物の歴史と作陶の工程を紹介するビデオルーム、また創作体験室もあります。長さ30m15段と長さ20m10段の2つの登り窯が復元されており、その大きさは全国でも最大級と言われています。毎年春と秋に開催される「やきもの祭り」では、ほぼ一昼夜に渡って摂氏1300度に達するまで燃えさかる登り窯の様子を目にすることができます。 ちなみに温泉津焼は江戸時代中期から生産が始まり、水瓶や壷などの日用品が北前船で全国に運ばれました。耐火性の強い陶土、釉薬に適した温泉津長石、焼成に欠かせない豊富な松材、築窯に適した斜面、天然の良港など条件が整って、温泉津は焼物の一大産地となりました。特に「はんど」と呼ばれる、出雲の来待石を釉薬に使った飴色の水瓶は、石見の特産としてもてはやされました。
温泉津の町並み
(ゆのつのまちなみ)温泉津は16世紀後半から石見銀山の外港として沖泊と一体となって発展した港町です。 江戸時代には銀山奉行が支配する幕府直轄領となり、銀の積み出しや銀山に関わる物資の搬入で賑わいました。銀山が衰退してからは北前船による廻船業の基地として、また薬効の高い湯治場を擁する温泉町としても栄えました。 温泉津は急傾斜の山肌を背にした狭い谷合いにあり、江戸時代以来の町割りが現在もよく残っています。廻船問屋の屋敷や温泉旅館、町家、社寺などが集まり、独特の趣きある町並みを形成しています。 2004年(平成16年)、温泉町としては日本で唯一、「重要伝統的建造物群保存地区」として国の選定を受けました。
元湯
(もとゆ)約1300年の歴史を持つ元湯は、湯治場としての温泉津を世に広めた由緒ある温泉で、毛利家より湯主に任じられた伊藤家が代々管理・運営しています。 元湯の温泉にはユニークな発見伝説があります。昔、旅の僧が温泉津に宿泊した際、妖怪に襲われたので斬りつけました。血の跡をたどっていくと一匹のタヌキが温泉で傷を癒していた、という言い伝えで、「泉薬湯」と書かれた看板の上にもこれにちなむタヌキのレリーフがあります。 源泉は透明ですが、空気に触れることで湯船には湯ノ華がみられます。一番熱い浴槽は48度もあります。 源泉の脇にある「温光寺」は薬師如来を祀り、船絵馬、格天井が残っています。
薬師湯
(やくしゆ)ひなびた温泉街の中でひときわ目をひくレトロ調で洋風建築物である薬師湯は石見銀山の玄関口として栄えた温泉津温泉の町並みのシンボルです。 昔から湧き出ていたのが、1872年(明治5年)の浜田沖地震で湯柱を上げたので「震湯」または「藤の湯」とも呼ばれ親しまれて来ました。 今、カフェとなっている隣の旧館は1919年(大正8年)に建てられた木造洋風建築で温泉街に大正ロマンの香りを漂わせています。 旧館の設計は松江城公園にある興雲閣(松江郷土館)の設計も手がけた和泉利三郎です。
恵珖寺
(えこうじ)恵珖寺は、1525年(大永5年)、真言宗から日蓮宗に改修した寺院です。 1587年(天正15年)には戦国武将細川幽斎が、豊臣秀吉の九州遠征の陣中見舞いの途中にここに立ち寄り、地元の町衆と百韻連歌の会を催しました(参加者8名で幽斎は23句を吟じましたが、その記録は隣の西楽寺に残されています)。 山門内部には、毘沙門天(左)、増長天(右)が置かれ、境内左手の墓地には初代石見奉行大久保長安の逆修墓があります。 また本堂裏手の墓地には、数多くの墓標が一つの屋根の下に並ぶ廟式墓地があります。廟式墓地は中国や沖縄など南方系の風俗から伝わったとされ、北前船を介して全国各地と交易があったことを伺わせます。
西楽寺
(さいらくじ)西楽寺は、覚兆庵という禅宗の寺院でしたが、1521年(大永元年)、浄土真宗に改宗しました。1603年(慶長8年)に西楽寺に改称し、本堂が造営され、さらに1831年(天保2年)に再建されました。昭和63年には大屋根を葺き替えるなどの大修復工事が行われました。 織田信長との大阪石山合戦時に本願寺顕如上人からの応援要請の手紙(杖籠りのご消息)が現存しています。
龍御前神社
(たつのごぜんじんじゃ)龍御前神社は1532年(天文元年)の創建と伝えられる神社です。 海上安全、漁業・温泉医療の守護神として、大己貴命(大国主命)を始めとする8神が祀られています。出雲系と九州系の神々が合祀されていることから、日本各地の様々な信仰が温泉津に流入していたと推測されます。 神社の旧本殿は竜の形をした巨岩の下に位置しており、もともとはこの巨岩自体が磐座=神の降臨する場所として崇拝されたと考えられます。この巨岩が神社の名前の由来となっています。 江戸時代には北前船の海上安全を祈願して持ち船の絵を神社仏閣に奉納することが行われました。この神社には7枚の船絵馬と1枚の立体絵馬(船模型)が奉納されています。
内藤家
(ないとうけ)毛利元就の家臣。鵜ノ丸城の初代奉行として赴任。そのご庄屋、廻船問屋、酒造業などを営んだ内藤家の歴史を伝える屋敷と土蔵群、特徴あるなまこ壁、縄のれん、格子窓や虫籠窓などが往時の隆盛ぶりを今に残しています。
愛宕神社
(あたごじんじゃ)温泉津の町を見下ろして建つ愛宕神社は、火伏せの神を祀る神社です。 梵鐘は、隠岐郡海士町勝田山源福寺の鐘でしたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して供出され、返還のときに間違って温泉津に運ばれたと伝えられます。 境内入り口には石見銀山初代奉行大久保石見守長安の逆修塔(生前に建立した墓)があります。 境内からは温泉津港を見渡すことができます。また境内の奥は沖泊に続く往還に連なっており、途中の階段から金剛院に出ることができます。
西念寺
(さいねんじ)西念寺は、然休上人を開基として、1571年(元亀2年)に建立された浄土宗の寺院です。然休上人は毛利元就が九州の立花城を攻めた際に手柄があった僧です。 現在の西念寺の境内は、もともと狭かった谷の岩盤を毛利家の手勢が手掘りで切り拓いたものと伝えられており、寺の脇から沖泊に続く往還道を見ても、切り立った岩盤が道となっています。「馬つなぎ石」も残され、付近には銀山役人松浦氏の宝篋印塔などの石造物が残されています。 西念寺の中庭には元就手植えの梅と伝えられる紅梅の老木があり、毎年2月頃に美しい花を咲かせます。