大森町並コース


コース概要

所要時間

徒歩 2時間(各有料施設15分×4を含む)

見どころ

石窟に500もの羅漢像が安置された「五百羅漢」。 銀山に関わった有力商家の暮らしぶりを伝える「熊谷家住宅」・・・石見銀山のお膝元で発展した大森地区の主要ポイントを訪ねるコースです。 大森の街並みの特徴は商家と武家屋敷が入り混じっている点ですが、商家は道に面しており、武家屋敷は塀や門構えの内側に建物があることで見分けられます。

銀山公園

各コースの出発点です。石見銀山ガイドの会の事務所もあります。

羅漢寺

(らかんじ)※有料
羅漢寺 五百羅漢の造立をはじめた月海浄印が、五百羅漢を安置するために1756年(宝暦6年)に建立した真言宗の寺院です。ご本尊の阿弥陀如来、不動明王、愛染明王と、室町時代の作りと言われる降三世明王および大元帥明王が安置されています。境内には33体の弘法大師像もあります。 羅漢寺から道路を隔てた石窟の向かって右手には、一荷300文で山吹城まで担いだことから「三百水」と名づけられた湧水があり、島根の名水100選にも選ばれています。 左手には高さ5.57mという日本有数の高さを誇る大宝篋印塔があります。これは五百羅漢の建立を支援した田安宗武卿の菩提を弔うため1771年(明和8年)に卿の妻子が建立したものです。

五百羅漢

(ごひゃくらかん)※有料(羅漢寺参拝料含む)
五百羅漢 観世音寺住職の月海浄印が、銀山の坑夫の安全と供養のため造立を発願したものです。月海和尚が1759年(宝暦9年)に没した後は、田安中納言宗武卿(8代将軍吉宗の次男)が支援を行い、30年近い歳月をかけて1766年(明和3年)に完成しました。 石窟は3室あり、中央の石窟に釈迦三尊が、左右の石窟に250体づつ計500体の羅漢が安置されています。 「親に会いたければ羅漢寺においで」と言われるように、500体それぞれ顔が異なり、仕草や表情豊かで、一つ一つ見ていくと知り合いの誰かに似ているとも言われます。

栄泉寺

(えいせんじ)
栄泉寺 栄泉寺は、1596年(慶長元年)創建の曹洞宗の寺院で、石見銀山における禅の修業道場でした。薩摩芋を広めた第19代代官・井戸平左衛門とゆかりがあります。 平左衛門が着任した翌年の1732年(享保17年)は米凶作でしたが、この年の養父の命日(4月16日)に栄泉寺に参詣した平左衛門が雲水の泰永から薩摩国で栽培している「から芋」の話を聞いて取り寄せたことが、多くの人々を飢饉から救うきっかけとなりました。 本堂は1800年(寛政12年)の大火の後、1807年(文化4年)に再建されたもので、裏山には地役人の墓が数多くあります。石段の上に見える山門は「竜宮門」もしくは「水天門」と呼ばれ、1854年(嘉永6年)に画僧仏乗禅師が建立したものです。

旧河島家

(きゅうかわしまけ)※有料
旧河島家 旧河島家は公開されている武家屋敷で、地役人の組頭まで昇進した上級武家の構えを伝えており、隣の空き地までがその敷地となっています。 一般に幕府直轄領は代官とその配下によって支配されていましたが、鉱山という特殊な支配が必要な場合には、それに精通した土着の者を地役人として採用することもできました。河島家は初代三郎衛門以来8代まで256年間に渡って地役人を世襲しました。 内部には当時使われていた調度品が展示されています。大きな門構えの内側に庭があり、建物は通りからやや引っ込んでいます。大森の街並みの特徴は商家と武家屋敷が入り混じっている点ですが、商家は道に面しており、武家屋敷は塀や門構えの内側に建物があることで見分けられます。

井戸神社

(いどじんじゃ)
井戸神社 井戸神社は1879年(明治12年)に第19代代官井戸平左衛門を祀って創建されたもので、1914年(大正3年)現在地に再建されました。扁額は勝海舟によるものです。 井戸平左衛門は1731年(享保16年)に着任しましたが、その翌年、石見地方を大飢饉が襲いました。平左衛門は公税を減らし、「蔵開き」などの救済措置を取り当時移入の難しかったサツマイモを薩摩藩から取り寄せるなど善政を施しました。 僅か1年8ヵ月の任期でしたが、この地方では今も「芋殿さん」「芋代官」と呼ばれ慕われています。「泰雲院殿義岳良忠居士」という戒名を刻んだり、「井戸明府」と彫られた頌徳碑は、石見一円を中心に隠岐や鳥取まで約460箇所と例を見ない多さです。井戸公奉賛会により5月と11月の年2回、平左衛門の命日である26日に例祭が行われています。

熊谷家

(くまがいけ)※有料
熊谷家 熊谷家住宅は、石見銀山の隆盛とともに繁栄した豪商の暮らしぶりを今に伝える貴重な建造物です(1998年、国の重要文化財に指定)。 4年余りかけた修復工事で江戸後期の建物を復元し、家財道具など数百点が展示されているほか、銀などを保管した地下蔵も見学できます。 熊谷家は安芸国高松城城主で毛利氏家臣だった熊谷氏の一族であるといわれています。17世紀には石見銀山で鉱山経営をしていました。18世紀、親族の保有する山師株を熊谷三左衛門が譲り受け、大森の地で商売を始めたのが元と言われています。 その後、掛屋、御用達、郷宿など代官所の御用請負人も勤めるようになり、19世紀には町政全般の総責任者である年寄職を代々世襲しました。鉱山経営だけでなく金融業や酒造業も営む町内で最も有力な商家の一つでした。

勝源寺

(しょうげんじ)※有料(要予約)
勝源寺 2代目奉行竹村丹後守が大檀那となり、1601年(慶長6年)に白誉上人によって創建したと伝えられる浄土宗の寺院です。 境内には丹後守ほか5人の代官、鈴木八右衛門、会田伊右衛門、前沢籐十郎、森八左衛門、関忠太夫の墓所があります。 四脚山門の阿吽の獣や龍の彫り物は、石見銀山の宮大工・石賀小平治良信の作です。1772年(明和9年)の山門修理の際に彫られたもので、昭和38年に来訪した版画家・棟方志功が絶賛したといわれます。「彫り物の龍が夜な夜な水を飲むため抜け出すので、目に釘を打って動けないようにした」との言い伝えも残っています。 境内裏山には700本のツツジに囲まれて、家康を筆頭に12代将軍までの位牌が祀られている東照宮があります。 代官所役人・阿部半蔵画「家康並びに十六将図」や、キリシタン地蔵、キリシタン灯篭などを見ながら本堂に進むと、見事な極彩色の格天井や石賀小平治作の欄間彫刻を見ることができます。

石見銀山資料館

(いわみぎんざんしりょうかん)※有料
石見銀山資料館 地元に残る石見銀山関連の文献資料や鉱山道具、県内外の鉱石などを展示するする資料館です。江戸時代にはここに銀山支配の拠点である代官所が建っていました(代官所跡は国の史跡に指定されています)。資料館は、1902年(明治35年)に建てられた邇摩郡役所をそのまま利用しています。

城上神社

(きがみじんじゃ)
城上神社 城上神社は、大物主命(大国主命)を祀る神社で、石見銀山の安全栄山を願う大森の氏神です。社伝によると、もともと仁摩町馬路の城上山にあったものを1434年(栄享6年)に大内氏が川向こうの愛宕山に遷座、さらに1577年(天正5年)毛利氏がこの地に遷座したとされます。銀山の支配者と常に関わりを持った神社です。 現在の社殿は1800年(寛永12年)の大火で消失し1815年(文化12年)に再建されたものです。拝殿は重層入母屋造りで、上側が和風の千鳥破風、下側が唐風の唐破風という珍しい様式です。拝殿の格天井には三瓶山志学の絵師、梶谷円隣斎による「鳴き龍」が描かれており、鳴き龍の下で拍手を打つと不思議な音が聞こえます。 境内には樹齢100年以上というナギの木、珍しい伝承を持つ亀石が置かれています。

代官所前ひろば